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コラム |
北海道夕張市から検見川高野球部を応援しています 北海道在住のOBは結構いらっしゃいます。 検見川野球部OB会北海道支部を立ち上げて欲しいな。 会合はもちろん北海道大学前「フラッグスタッフカフェ」で! 素敵な先輩が美味しいケーキとコーヒーを用意してお待ちしています。 http://www5.plala.or.jp/flagstaff/ 事務局記 |
部室の壁に掲げてあるかはわかりませんが、母校が本気で「甲子園」を目指し、日々の練習に取り組んでいることを誇りに思います。HPに『祝 検見川高校甲子園出場!』の文字が躍る日を、そして甲子園球場で母校を応援する日を心から楽しみにしています。 この場をお借りして、OB会の立ち上げから運営にわたる事務局、役員の諸先輩方や関係の方々のご苦労に敬意を表するとともに感謝申し上げます。 15期生 みつわ台中出身 辻 大士郎 背番号5 * 辻大士郎プロフィール 辻さんは、高校時代は主将4番打者としてチームをけん引。 |
野球を今も続けています(草野球ですが)。草野球ではありますが、長く続けている事で思う事。それは野球とは考えるスポーツだと言う事です。40代も半ばを過ぎながら楽しみながら出来ているのは、体力の衰えを考えるという事でカバー出来ていると思えるからです。体力は格段に落ちましたが、今が一番野球うまいんじゃないかと思います。写真は今の草野球チームです。検見川高校7期生(野球部以外にバレー部など)中心に拓大紅陵・姉崎・若松・薬園台のOBや日本文理で甲子園経験者、検見川高校野球部25期生の父など多士済々、OBの方で野球やりたい方!! 是非一度お声掛け下さい。 7期生 幕張西中出身 高橋正和 背番号3 |
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2011年1月9日 OB総会にて |
先日の第3回OB総会と懇親会楽しく過ごさせていただきました。 さて、冬の思い出をいくつか 冬の練習というと主にロードワークと筋トレですが、練習時間も比較的短かったので、このシーズンになると我々はよく練習後にバレーボールや卓球をやってました。 バレーボールは当時の日本が強かったせいでしょうか、みんな好きでしたね。結局フルセットで2時間くらいやってあの当時の体力でも最後は膝がガクガクになってました・・・(体育館多分無断使用<(_ _)>) 部室で鍋とかもやりましたね ・・・(当然無届<(_ _)>) あの頃は今より雪も結構積もりましたね。 直後下半身がずぶ濡れになったAが氷の間から這い出てガタガタと震えております。 冬のネタということでご容赦ください<(_ _)> 受験生の皆さんはもう本番を待つばかり、後はここまで積み重ねた努力の成果を発揮できるよう万全の体調で試験に臨んでいただきたいと思います。 健闘を祈ってます。 |
アルプススタンド/いつの日かここで応援がしたい |
3期生 緑町中学出身 朝井春樹 背番号1 |
2つのロゴも世代や時を超えて繋がっています |
冬場の地道なトレーニングは、つらい。でもあきらめず、さぼらず乗り越えた者が、チームが最後にきっと笑う。選手のみなさん、長くつらい冬が続くでしょうが頑張ってください。
今から19年前の冬のトレーニングの話です。 我々15期には、I君という野球未経験の部員がいました。彼はその日、階段を上るとそのまま境内まで行き鈴を鳴らし、なにやらお祈りをし、そして下るという不可解な行為を行っていました。当然100往復なので100回も。 それから数カ月後の夏の大会のベンチ入り発表。3年生でベンチ入りできない仲間も多くいる中、I君はベンチ入りを果たしました。監督さんは部員たちの前で話しました。「Iは、一番努力した。そして誰よりもグランド 今、I君は自衛隊員として立派に日本を守ってくれています。こんなピュアな男がいたこと、修行のような厳しい試練を励まし合って乗り越えた先輩、仲間、後輩がいたこと、また、野球だけでなく人としての成長を指導をしてくださった石野先生、松田先生、浜野和先生、遠藤先生に出会ったこと、・・・。そして、OB会の設立により世代や時を越えて「検見高野球部の魂」がつながったこと、そんな検見高野球部を誇りに思います。 15期生 花澤 悟史 さつきが丘中出身 背番号6 |
背番号「9」 |
高校卒業から、はや24年が経過しましたが、11期生の最後の夏の大会はドラマになりそうな、すごい試合で、今も鮮明に覚えています。 11,12期生のチームはバランスのいい好チームでした。少なくともあと1,2回は勝てる力はあったと今でも思ってます。 曽根さんは、高校・大学時代とも主将として活躍されました。コラムにも書かれております投手・三瓶さんは、12期生の当時2年生。中学時代は、みつわ台中で千葉県大会の準優勝投手として活躍されました。県大会準優勝投手といえば、幕張西中出身の9期生の千葉さんもしかり。又、県大会優勝投手といえば、千草台中出身の鈴木英二郎さん達の5期生・3人衆。忘れてならない習志野3中出身の10期生河合さん。富岡さん。習志野3中は、関東大会準優勝、全国ベスト8という輝かしい記録を残してます。 参考) http://park20.wakwak.com/~chiba-chuyaren/record/record01-1.htm 事務局記 2010年12月10日 PS 彼らの記録にはかないませんが、昭和50年の県大会三位は我が母校でもありまして、2番セカンドでした。 追記:昭和61年の県大会三位は、習志野4中。14期の本田主将。斉藤さん達のの記録でもあります。 事務局記 2011年1月5日 |
2010年6月 環境整備参加者 |
高校野球考 高校野球は短い。が、よく努力すれば長くもある。 たとえ1回戦で負けても、よく努力した場合には高校野球は生涯のものとなる。同期や先輩、後輩との語らいは、すぐさま高校時代に戻ってしまう。高校時代の話をこれだけ出来るのは、この場をおいてないであろう。たとえ、1回戦で負けたとしても。 結果は運である。同じ努力をし、同じ実力のチームのどちらかに勝利の女神が微笑むかは、女神のタイプがどちらであるかに過ぎない。結果がどうであろうと終わりを迎えるまでの過程が、高校野球を終えた後での高校野球の時間を長くするのである。 たった僅かな時間でも、よく努力した者ほどその時間を記憶している。何に向かって努力するのか。個人の目標、チームの目標はそれぞれ異なる。個人の目標はおのおのが、チームの目標はチーム全員が共有し、そのイメージを最後まで維持できるかがそのチームが強くなれるかどうかの分かれ道である。 ただ私は、最後の試合の最終回の場面しか憶えていない。 中堅手と右翼手、二塁手の間に飛んだボールが地面に落ちた場面くらいしか憶えていない。 自分なりには精一杯努力したつもりであったが、記憶にないということはどういうことか。夏の大会の初戦で負けたことも悔しさを感じなかった。なぜ悔しくなかったのか。 その時は深く考えたこともなかったが、今考えるとわかった。25年以上経ってようやくわかった。個人の目標とチームの目標である。 高校を卒業して、ある先輩に会った。その時、言われた。「おまえがレギュラーになれたなんて、嬉しいよ」その言葉は、今も私の記憶にある。 8期生 佐藤純一 志津中出身 背番号9 |
2009年7月 壮行会の様子 |
チームメイトのおかげで当時部員20名もいなかった昭和52年秋の大会で初のベスト8へ進出できたのは良い思い出となっております。私がもう少ししっかりしていればもう少し勝ち進めたのにと考える事もあります。当時の先輩、同輩、後輩には申し訳なく思っております。 しかし高校3年間野球をやって本当に良かったと思っております。学んだ事は多くあり、今も思い通りにならないことはたくさんありますが、耐える事、物事を前向きに考える事等その後の人生に大きく役立っております。 今年の検見川高校野球部夏の目標新聞にて拝見し、全国制覇とあり感動致しました。 部員数も多く、レベルも高く試合に出るのも大変だと思いますが、試合に出る者も出ない者もそれぞれの役割をしっかりこなし、特に3年生は最後の公式戦となりますので、悔いのないいい試合をする事を期待しております。 |
9期生は間違いなく強かった。 ところで、公式戦ホームランは初耳でした。 事務局 記 |
昨年より本格的に活動が再開した検見高野球部のOB会、縁あって一昨年の設立準備の集まりに出席することなりました。 当初私には積極的にそのような集まりに参加する理由など全くといっていいほどなく、同期H君から回り回ってきたオハチを回す先を探していた矢先に2コ上のT先輩から連絡を頂き『お前来るよな!』の一言で”体育会系の法則”により拒否権放棄となりました。 土曜日の夕方からと本千葉のレストランを教えられ、朝から考えたドタキャン理由が1ダースほど用意できた矢先『場所分るか?』とT先輩から携帯にお気づかいのメールが・・・、『大丈夫です!』と”体育会系の条件反射”により返信、本元来人見知りの激しい私は京葉線とモノレールを乗り継いで会場へ恐る恐る足を踏み入れました。 何人か懐かしい先輩の顔が見えちょっと安心したのも束の間なんと出席者の中で最年少とのこと,蘇りました二十数年前の『いちねんぼぉ〜』と呼ばれて背筋の伸びる感覚が・・・(((;゚д゚))) さて、いよいよ夏の大会が始まりますね、本来であればここは夏の大会の思い出と武勇伝で後輩にバシッとエールを送るべきところなのですが、ここまでこのような話で引っ張ったのには理由があります。 一つは一回戦で姿を消した我々は夏の大会の思い出が残念ながら少ないということ。 要するに都合のいいことしか覚えてないんですね。いやいや、自分にとっての名場面はちゃ〜んと覚えてるんです!ただ単に名場面が少なかっただけですよ多分・・・ 後輩諸君! 悔いなきプレーと仲間への惜しみない声援で自身の名場面を一つでも多く心に刻んでください。 ガンバレ検見高!! 2010.06.22 |
頑張れ!検見川野球部! 事務局記 2010年6月22日 |
他のスポーツでもゲーム展開の流れはあると思いますが、野球との違いはゲームが止まる事なのでしょうか。ゲームが止まる事で考える時間が生まれ、その中で流れを読み、そこに作戦や戦略がある。 高校時代にはそんな事は全く考えておらず、ただがむしゃらに練習していました。練習量はそれなりにこなしていたように思いますが、一つ一つの練習にもう少し目的意識を持って練習出来ていたら、結果も違っていたのかなぁと、ちょっと後悔しています。 もう一つ、考える上で必要なのはどれだけのケースを想定し、準備出来るかだと思います。そのパターンが多いほど十分な準備が出来るのではないでしょうか。そして、それらはより多くの経験の中から生まれてくるのもだと思います。 現役時代は練習も辛く、長いと思えた3年間でしたが、終わってみると呆気ないものでした。現役の皆さんには、ワンプレーを大事に、数多くの経験をして、次のプレーに生かせるよう高校野球生活を送って頂きたいと思います。 |
我々OBは検見川高野球部を応援しています! 事務局記 2010年6月18日 |
あれは、高校2年の5月でした。バッティング練習が終わり監督に呼ばれ『お前は、今日から左で打て』と言われました。今になってみれば、まったくオカシナ話しなのですが、その時は、「右で打つ時の欠点を解らせる為の左打ちなのかなぁ」と軽く考えていました。ティーバッティングの練習では、マネージャーがトスしてくれたボールを見事に空振りして、私の左打ちが始まりました。その日の練習が終わり、又監督から、『外野の頭を越すようなヒットは要らない。三遊間に転がせばよい。』と……。自分の気持ちのなかでは、半分は理解し、半分では「俺だって、大きいのは打てる」という気持ちでした。練習試合に行っても、仲間が出場している試合をろくに観戦せず、左打ちの同級生に「自分のスイングが形になっているか」よく見てもらいました。(その同級生にしてみれば、試合にでるチャンスがあるのになぁと思っていたと思います) 左打席で迎えた初めての練習試合では、スイングらしいスイングも出来ませんでした。ただ、その試合で迎えた2打席目。消極的になっている私に、ベンチからの『思い切っていけ』との声援を受け、とにかく思い切って振った当たりが、ライト前に。相手チームにしてみれば、大敗しているチームが、何でそんなに喜ぶのか不思議に思うほど、ベンチの皆が喜んでくれた事を覚えています。 しかし、未だ監督の期待や意図を100%理解できていませんでした。少し調子が悪くなると、「何で俺は左で打っているのか」という気持ちが強くなり、ある練習試合では、右打席で打ちました。ベンチに帰れば監督やチームメートから非難を受けました。「左打ちを簡単にあきらめるな」と。しかし、結果を出せない日々が続きました。 自分にとって幸運だったのは、最後の公式戦。3年生の夏の大会、ベスト8を掛けた習志野高校戦で打てたことです。3回表、相手投手の球威に押され打球は三遊間の方向へ。サードが差し出したグラブの上を越え、ショートが補給しましたが、内野安打になりました。ボールの行方を見ながら、そのときになってはじめて監督の意図が100%理解できました。自分の長所である足の速さを活かすための「左打ち」だったことを…。 選手の皆さん、指導者の方々は、皆さんを良く見ています。皆さんに100%の力を出させる為に叱咤激励をしています。大会迄あと1ヶ月、悔いの無い1ヶ月を過ごして下さい。 2期生 君塚 敬 稲毛中出身 背番号4 |
若い時に経験した挫折感は人を強くそして 逞しく成長させてくれるものだと思います。 事務局記 2010年5月17日 |
私が野球を始めたのは小学1年生の時、強い巨人軍が大好きで最初に買ってもらったユニフォームはもちろんジャイアンツモデル、背番号は世界のホームランバッター王さんの1番でした。小学校低学年の間は毎日学校帰りに空き地や公園で日が暮れるまで野球に明け暮れました。それから程なく高校野球をTVで目にするようになるとプロ野球の選手に持つ憧れとは異なる親近感と全力疾走に代表されるようなひた向きなプレーに強い感動を覚え、どんどんその世界に魅了されるようになりました。小学校6年生の時に夏の甲子園大会で銚子商業が全国優勝を果たし、私も高校野球を志すようになりました。 高校受験に際し6年生の時の志を胸に検見川高校を志望しました。当時の検見川高校は4年目で新設校でしたが県大会ベスト8の実績があり又、大学進学率も高い事などがその理由です。我々5期生の入部は16名ほどであったと記憶しておりますが、卒業時にはマネージャー1名を含む14名でした。同級生には中学千葉県大会優勝メンバーが3名、シニア経験者など中々の顔ぶれです。 私は、長年の自己流野球のため基礎からスタートです。1年生の間は練習についていくのがやっとでしたが、その間にも同級生の有力選手たちはレギュラーやベンチに入り試合に出ていました。2年生になると控えの一塁手として徐々に試合にも使ってもらえるようになりました。2年生の目標は夏の大会でベンチ入りしゲームに出ることです。春の大会では背番号をもらっていましたが、6月の練習時に指を怪我して万事休す。夏の大会メンバー登録前には完治し、練習で猛烈にアピールしましたが、日が暮れた練習後のグランドで私の名前が監督から呼ばれることはありませんでした。悔しかったです。初めて味わった挫折感です。2〜3日は気持ちが切り替えられませんでした。やめてしまうことも考えましたが、途中で投げ出してはいけないと思い止まり続けることにしました。2年生の夏、4期生の最後の年、先輩と同級生の活躍から東海大浦安に惜敗しましたが4回戦ベスト32の戦績でした。スタンドから応援した夏、私にとって非常に良い経験になりました。 そして最後の年、春の県大会予選で逆転勝利となるタイムリーヒットを打ち、やっとチームに貢献することができた気がします。その後の県大会で木更津中央(今の総合)に敗れ、実力校との力の差を見せつけられました。そして最後の夏、練習後のメンバー発表、3番目に呼ばれると信じていた私の名前が呼ばれたのは11番目、事前の新聞記事では1塁手での登録を確認していましたのでこのときもショックでした。自分には一体何が足りなかったのだろう?家に帰り母親にそのことを報告したら「背番号は自分では見えないし気にしないでがんばりなさい」と言われ、背番号11番をユニフォームに一針一針丁寧に縫いつけてくれた姿を今でも思い出します。最後の夏は、主戦ピッチャー・主将のキャッチャー・4番バッター・守備の要のセカンドの4人の同級生が中心となり5回戦まで進出し、最後は千葉商業に敗れベスト16で『ゲームセット!』こうして私たち5期生の高校野球生活は幕を閉じました。振り返ってみると私の高校野球は、必ずしも思うようにはならなかったし、どちらかというと挫折の繰り返しではありましたが、最後にはよい思い出を作れたと思います。止めずに続けたこと、仲間に恵まれたこと、良い先生にご指導いただけたこと、そして野球をやらせてもらえた両親にも感謝しております。 高校卒業後30年近くが過ぎましたが、今の自分の精神は高校野球時代の3年間に培われたと言えます。検見川高校現役野球部の皆さん、選手生活中には色々なことがあるでしょうが、是非3年間遣り通してください。そこにはそれぞれの目標とプロセスと結果が有りますが、この3年間の経験は社会に出た際に色々なシーンで必ずパワーの源になる事でしょう。この精神は何歳になってもきっと色あせることはないとも考えます。 最後に今年の夏も検見川高校の「熱いベースボール」を心より期待してペンを置かせていただきます。 追伸:長々と自分の事ばかり書き過ぎました。次回はもう少し客観的に高校野球を語りたいと思います。・・・したー。 5期生 藤田雄一 真砂2中出身 背番号11 |
土曜日の夜7時〜4チャンネル 「巨人の星」はみんな楽しみに観ていました。 |
私が野球を始めたのは小学生4年位で昭和45年高度経済成長真っ只中でしたが、 私の生まれ育った誉田と言う田舎町では当時遊びと言えばベーゴマや釣りと言った 甚だ牧歌的な娯楽しかなくダラダラとお気楽な少年時代を過ごしていました。 とこがある日の土曜日7時4チャンネル、突如「巨人の星」と言うかつて無いスポ根アニメの大金字塔番組が現れ眠れる田舎少年のをたたき起こしたのでした。 然しこのシナリオは有り得ないだろ!と言う様な結構無茶苦茶な場面も多々ありましたが いつしかどんどん感情移入していき野球にのめり込んでいったのでした。 然し当時ルールもろくさっぽ解らない田舎のジモティ集団だったので私は何となく感触が合っていると 思い込み右バッターでありながらグリップは左握りで振っていました。 そこに「少年!それでは怪我をするぞ!」と当時放課後の校庭に出没していた謎のオッサンからのアドバイスで左打ちにしたところ、たちどころにライト後方の校舎の屋根に着弾し瓦4〜5枚破壊する弾丸ライナーを放ち 途端左打ちに開眼したのでした。 その後中学は坊主はかなわんと言うことで野球部には入らず、我が検見高も当初坊主理由に敬遠していたのですが、突然何かに導かれるようにいつの間にか入部していたのでした。 やはり一期生は素人集団で試合をしても「やると負け」状態が続いていました。 ある日いつもの様に負けて家に帰ると野良仕事で休息を営んでいた母と祖母が「また負けたのかい?ギャハハー」みたいにけたたましく笑われたのが「この人らマジ馬鹿にしているのか、或は負けても気にせずリラックスせなあかんよ」的にフォローしてくれてるのか良くは判らなかったけど自分的には後者と思い込みその後初勝利につながる結果とあいなりました。やはり「何事も前向きに捉える事が大事なのだ!」 がその時の教訓でした。 その後大学でも続ける事が出来、社会に入ってからも「あいつは仕事はアホやけど野球は使える」てな具合でビジネスにも大いに貢献する事が出来て随分助けられてきました。 今回のコラムでは一体全体長々と結局何が言いたいのかと言えば、「野球は恩人」と言うことになりますか。 今までの人生振り返って様々な場面で野球に救われる事が多く今日の自分があるのはまっこと野球のおかげだと思うちょります。 私にとってOB会と言う組織はその恩を返せるまさにもってこいの場所なのだとつくづく有りがたく思います。 野球の神様、梶原一騎様、謎のオッサン、ホントに有り難う御座いますと言わせてもらいたい。 2010年4月23日 1期生 三枝優量 誉田中出身 背番号 1 |